続・むらかみさんちの

▼前回までのおはなし
毛嫌いしていた村上春樹の小説を、ふとしたきっかけで読んでみたジャミラさん。
夢中になって1Q84を三冊読み切った後、ふしぎな感覚におそわれる。
なんだろうこの感覚、もしかしてこの気持ち……これってまさか、恋?
ばっ……バカバカ、そんなわけないんだから、アイツのことなんて何とも……!


という小ネタは置いておくとして。


村上春樹の読みかた

村上春樹の読みかた


働いている図書館にあったので読んでみました。
いや、そうそう、これこれ! こういうことを知りたかったの!
という感じです。頭のいいひとはやっぱり違うよね。


亀山郁夫さんの書評から抜粋します。

……この無意識の世界に誘導していく手口というのが、時にあざといというか、すさまじく強引なのですね。その強引さが耐えられないという人もいると思いますが、私はその強さに感動してしまう。(略)この手法に関連して、再読した今回考えたことで、誤解を恐れずに言えば、これはいわゆる小説本来のジャンルとは異なる世界をめざしているということでした。ことによると、言葉で書かれたアニメではないか――アニメだから悪いとかということでは全然ありません――、そんなことを考えました。

 もうひとつ、「挑発の原理」の面についてお話しましょう。不条理による挑発ということなのですが、これも見逃せない部分だと思います。『1Q84』の中に登場する、ある老婦人のもとでボディガード役をつとめるタマルという人物は、出は朝鮮の人で、樺太=サハリン生まれです。このサハリン島のモチーフがこの作品の中に何度か繰り返し出てくる。「何か本を読んでちょうだい」という「ふかえり」の求めに従って天吾が読むのは、例の有名なチェーホフの『サハリン島』の一節です。それは、先住民のギリヤーク人の習俗の話で、そのギリヤーク人の話を、ふかえりは「きのどくなギリヤーク人」とか「すてきなギリヤーク人」とか感想を言って、気に入ってしまう。ところが、その後で、このギリヤーク人の、恐るべきすさまじい男女性差別の習俗の描写を天吾が読み上げます。そのとき、ふかえりは何の感想も言わず、ただ黙っている。(略)カルト集団にあってすさまじい暴力にさらされたふかえりですから、嫌悪感を覚えるのが当然なのですが、そうではない。ギリヤーク人の話に耳を傾けるうち、ふかえりは深い眠りに落ちてしまう。ふかえりがギリヤーク人の話を受容する。そのように小説は描かれています。
 これが不条理による挑発で、村上春樹の手法です。この場面、ふかえりの心理というか、ふかえりと天吾の会話で起こっていることが、小説全体に何かしら大きな意味を持っていると思うのです。ここには、ふかえりの、そして天吾の、いわゆる心理の描写というのがありません。あるのは、それぞれの空想、妄想を刺激し、無意識をゆり動かそうとする会話です。『1Q84』には、いわゆる日常の心理描写がない。心理描写がないということは、会話はあっても対話は存在しないということです。(略)そういう意味では、ドストエフスキーの対極にある小説と言ってよいでしょう。

 他には、青豆が何度も自分の胸のサイズを気にしているということがあります。自分のふたつの乳房がいびつであるということ、形や大きさが違うということについて数ヵ所で言及されている。(略)面白いことに、男を誘惑することに失敗した青豆が、朝起きて自分の裸身をながめるシーンがあります。実は、この直後に、ふたつの月のモチーフが極めて明確な形で現れてくるのです。(略)女性の同性愛の神話的な起源は、アマゾネスと呼ばれる種族に由来します。この「アマゾネス」の起源をちょっとみていくと、彼女たちは弓を得意とし、敵を弓で殺したわけです。普段に弓を射るという行為をつづけているうちに、右側の乳房が擦れて小さくなってしまった。だから、ふたつの乳房がいびつになってしまう。思い出してほしいのです。青豆はソフトボールチームのピッチャーでした。右投げですから、おそらく右の筋肉が発達し、それで乳房がいびつになった可能性があります。私は村上春樹が、アマゾネス神話に、女子ソフトボールチームを二重写ししていたと感じています。他方、天吾と不思議なセックスを経験するふかえりの乳房については、「みごとに完全な半球を描いていた」と表現されています。これは、まさにパラレルワールドをなす世界のシンボルイメージといってもよいのですね。そこから導き出されてくる結論は、ファウスト的テーマです。女性原理、すなわち「永遠に女性的なるもの」による救済のテーマです。
 では、その女性原理は、同性愛と一致するのかというと、そうではないのです。同性を愛するということと、女性原理は、むしろ対極にあるものとしてイメージされているのです。思い出していただきたいのは、タマルという男性の同性愛的な傾向に対する村上春樹の書き方です。BOOK3で、このタマルが、牛河を殺す場面の残虐さというのはちょっと半端ではない。そして、このタマルの持つある種のマッチョな暴力性を強調するために、逆に牛河という、メフィストフェレス的人物の、きわめて人間的な内面のドラマを描いている。牛河を殺害する同性愛者タマルは、青豆からすると逆に完全否定されるべき存在でもあるにちがいない。


……いやー、スゲーわ。こういうの、これこれ! まさに! これよこれ!
こういうことをさ、教えてほしかったのよアタシは!
面白いね書評って。
もちろん著者の意図とずれてることもあるだろうけど、考え方の幅が広がるじゃない。
もっとちゃんと勉強して、おもったことをこういうふうにきちんと説明できるようになりたいなー。